上野戦争碑記

こんにちは!!! 主宰です!!!

今回の『月を待つ人』の勉強のため、前回上野公園に史跡巡りした際、寛永寺に『上野戦争碑記』というものがありまして。


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漢文で、皆でにらめっこしながら「なんて書いてあるんだろうね」なんて言ってましたら、なんと和訳してくださっているサイトを発見しました。


上野戦争碑記


そもそもこの石碑は「彰義隊」の名付け親でもある阿部弘蔵という方が記したものだそう。
実体験者が書き残した数少ない資料なんです。

彰義隊の墓も色々苦労があってやっと建てられたようですが、こちらも設置までにかなりの時間と苦労があった様子。
なんといったって、これを書いたのが明治7年かと思えば、石碑建設になんとかこぎつけられたのが
明治44年なんですよ…!?

冒頭・末尾の削除、事実関係の訂正(政府のよいように…なのかな…?)、「西軍」「敵軍」を「官軍」「官兵」に変えるなどなどかなりの校正を要されたようです。


ですがこちらのHPでは『彰義隊戦史』にもとづいて、政府の指示で削除されてしまった文面も掲載されており、かなりリアルでとても参考になりました。
あとは彰義隊が、どれだけ江戸の町民らに好かれていたかも見えるところが、他と違いよく伝わってきてよいです。
その分、辛いなぁと思うところもありますが。


さて、このHPの和訳をベースに、私なりに調べてわかったことを若干だけ肉付けして、上野戦争碑記をご紹介します。




【冒頭で削除された部分】

明治になって天皇の政治が復興すると、多くの制度が一新された。その仁徳は国中に行き渡り、亡くなった人々にまでその恩恵は施された。
国のために命を失い、その功績が大きくはっきりしている者には、数百年前の人であっても全て爵位を追贈し、英霊を祀った。
また以前に朝廷から罪を問われた者であっても、その過ちを認めて志を改めれば、才能に応じて登用。以後は一切昔の罪を問題にはしていない。

ところが彰義隊に従って戦争で亡くなった者たちだけは、あの時に新政府軍に抵抗したという理由で、今になっても簡単な葬儀さえ許されない。
見捨てられた魂は彷徨い、きちんと成仏できないでいる。

ああ、反逆者として扱われて、彼らが不満を持たないわけはなかろう。
彼らだって、自分たちが仕える主君に尽くしただけなのだ。それなのに、世間の人がたいてい経緯を調べもせず、結果だけを見て評価しているのは、きちんとした議論ではない。




慶応4年1月。
鳥羽伏見の戦いが起こると、前・征夷大将軍である徳川慶喜公は江戸に戻り、自らの罪を認めて上野で謹慎した。
この時、江戸城内では大騒ぎとなり、盛んに議論が交わされた。


年齢が高く経験を積んだ者たちは
「朝廷に対して罪を認めたのだから、今さら兵を出して抗戦すると罪を重ねることになる。
降伏の意を示して、天皇陛下の命令を待つ方がよい」

と言う。

しかし若い者たちは皆
「それは陛下ご自身のお気持ちから発せられている命令ではない。2~3の藩の家臣が出しているものだ。主君のために無実の罪を晴らし、お家の存続を天皇陛下に求めずにはいられようか。
もし聞き入れられなければ、命を捨てるだけのことだ」

と言う。
彼らの憤りは激しく、一言一言が、聞く者の胸を打つのだった。


私も彼らの意見に賛成し、同志諸君と四谷の円応寺に集まり計画を練った。
やがて浅草の本願寺に移り、その後上野の東叡山寛永寺に陣取って、いよいよ天皇陛下にお願いする時となった。

皆は私に隊の名を考えさせた。
私が「大義を彰(しょう)明(めい)(=明らかに)できるかどうかは、今回の行動にかかっている。『彰義隊』と名付けよう」と言うと、皆は「よし」と答えた。



この頃になるとあちこちからやって来て参加する者が日増しに多くなったので、ある日、十二の隊を組織した。

遊撃隊・歩兵隊・猶興隊・純忠隊・臥竜隊・旭隊はすべて幕府直属の侍たち。
萬字隊は関宿藩士(千葉)、神木隊は高田藩士(新潟)、松石隊は明石藩士(兵庫)、浩気隊は小浜藩士(福井)、高勝隊は高崎藩士、水心隊は結城藩士(茨城)である。
それぞれ隊長を決め、取り決めをして、寛永寺内の宿坊に分かれて立て籠った。

この時、新政府軍はすでに江戸城に入っていて、我々を解散させようと命令してきた。
使者が何度も行き来したが、結局、我々は聞き入れなかった。



前・征夷大将軍の慶喜公は水戸へと移動していった。その為、輪王寺法親王を改めて擁立して、初心を貫こうと考えた。
新政府軍は、我々の意志が固く、降伏させられないと分かると、攻撃を決定した。



その昔、寛永年間(1624~43)に徳川氏が上野に根本中堂を建て、寛永寺と名づけた。皇族の輪王寺宮が代々その住職を務めてきた。

建物には金箔や碧玉がきらめき、この上なく壮麗だった。
根本中堂の前には吉祥閣がそびえ立ち、まわりに三六の宿坊を配置したのは、比叡山に倣ったものだった。そこで『東叡山』と名づけたのである。

土地は小高くて湿気が少なく、西を見下ろせば不忍池、すぐ東南は下谷の町、西北は根岸・三河島の村々へと続いている。けれども、防御に役立つ城壁はなかった。
そこで町人たちを急いで集め、木や石を運び、垣を築いて柵を建てた。
町民たちは先を争ってやって来て、仕事をしてくれた。大砲を山王台に設置して、東南の守りとした。

山門は全部で8つあった。
南は黒門といい、広小路へ通じている。我々の隊が、歩兵隊・萬字隊を率いてここを守った。
東には新黒門・車坂門・屏風坂門・坂本門。この一帯は丘を背にして、町に面していた。
我々の隊と純忠隊・猶興隊・遊撃隊がこの守備に就いた。これらの中から別に一隊を組織して、啓運寺と養玉寺に分かれて陣取らせた。
西には穴稲荷門があり、神木隊・浩気隊が守備に当たった。
清水門と谷中門では、我々の隊と歩兵隊・臥竜隊・旭隊・松石隊が守りに就いた。

部隊の配置が決まったので、町人たちには避難を命じた。




5月15日の明け方。新政府軍が攻めて来た。

元々我が軍は3000人余りが寛永寺にいたが、攻撃が突然だったので、外にいた者たちは道を塞がれて戻って来られなかった。また、怖くなって逃げ出した者もいた。
寺に留まり応戦した者は、わずか1000人ちょっとであった。
急いで他の隊にも伝令を出し、それぞれ陣地を守った。


鹿児島藩と熊本藩の兵たちが、雄叫びを上げながら広小路を進み、まず南門(黒門)に攻めかかってきた。我が軍が銃を集中して一斉に発砲すると、新政府軍のそれを避けて退いた。

ちょうどこの時、湯島台にいた鳥取藩の兵が、湯島天神の別当・喜見院に火を放った。
そして不忍池の南岸を進み、鹿児島藩・熊本藩の兵に合流して、その勢いはだんだん強くなった。

山王台にいた我が兵は、大砲を放って、しばらくの間これを防いだ。2か所で火の手が上がり、炎と煙が空いっぱいに広がる。
竹町から進んできた津藩の兵が、山の下にあった料理屋の2階に上がり、簾の陰から狙撃してきた。
我が軍はこれに向かって発砲して、退散させた。



季節はちょうど梅雨で、泥水がふくらはぎまで浸かった。
町人たちは荷物を担いで逃げようとし、ひっくり返って動けなくなり、泣き叫びながら道のあちこちに倒れている。
けれども、我々のところに来て助太刀しようとする者も少なくはなかった。



萩藩(山口)・岡山藩・大村藩(長崎)・佐土原藩(宮崎)・津藩・名古屋藩の兵たちは、本郷から西門に向かって攻め込み、根津神社に陣取っていた我が軍を撃ち破り、そのまま三崎坂にまで突撃してきた。

ここは土地が起伏し、小道は狭くて急で、さらには水たまりができていて、足止めされて進めなくなった。
我が軍兵は高いところから撃ちまくり、逃げるのを追いかけて木立の下まで行ったところで、伏兵に遇って全滅した。



根津の南には、水戸藩・富山藩・高田藩の屋敷があり、不忍池を隔てて寛永寺と向き合っていた。
佐賀藩・岡山藩・熊本藩・佐土原藩・津藩・名古屋藩の兵たちは、そこに陣を構えて遠くから銃砲を撃ってきた。
また、一隊に舟を浮かべて池を渡らせ、穴稲荷門まで迫ってきた。我々の兵は、よく踏ん張った。

德島藩・鹿児島藩・岡山藩・新発田藩(新潟)・津藩・彦根藩の兵たちが、東門へと攻め込んで来る。我が軍は、ここが最も手薄だった。
啓運寺の兵が迎え撃って撃退して、逃げるのを御徒町まで追いかけた。新政府軍は、引き返してまた攻めてきた。
我が軍は、戦いながら退却する。養玉院の兵が出撃して援護し、挟み撃ちにした。新政府軍は敗走した。



この時、東・西・南のそれぞれの門が、すべて包囲されていた。
我が軍は奮闘して、全員が1人で100人もの敵と戦っていた。中でも激しかったのは、南門の戦いだった。夜明けから正午まで戦ったが、勝敗はまだ決まらない。

両軍の咆哮は落雷のようで倒れる者が後を絶たず、老樹の枝は大砲により砕かれその轟音で墜落した。
砲弾にあたった肉片は飛散し、幹に付いた血は滴り流れ、その光景は見るに堪えない。
天野八郎は兵を取りまとめ四斤山砲(フランス製の大砲)を発射させたが、たまたま人があり声を大きく

「今しがた会津藩士数十人が敵陣に突撃しにいった、暫く発砲を止めよ。さもなくば我が軍で相撃つ恐れがある」

と言うと山王台の兵が少し躊躇した。その隙に乗じてたちまち新政府軍が彰義隊に猛撃し、兵は驚いて動揺した。



午後2時ごろ、南門を攻撃していた津藩の兵がぐるっとまわって上野の山の下に出て、乱射しながらすぐ近くまで迫ってきた。
我が軍は、だんだんと崩れだした。

新政府軍は勝ちに乗じて、南門から入ってこようとする。
我が軍は応戦して撃退したが、鹿児島藩・佐賀藩・鳥取藩の兵が入れ替わりに進撃してきた。その攻撃はとても激しい。我が軍には死傷者が相次いだ。

天野八郎は鞍上に立ち大声で兵を叱咤し防戦を訴えるがついに諸門は敗れた。

最初に新黒門が陥落し、その他の門もその後、突破された。
こうして、新政府軍は三方向から雪崩を打って入って来て、寛永寺を占領して火を放ったのだった。



私は最初、南門の守備に就いていた。突破されると、100人の隊士たちと一緒に退却して、根本中堂の前に行き、死にものぐるいで戦った。

ちょうどその時、火が殿堂にも燃え移った。吉祥閣も黒い煙と激しい炎に包まれた。
その勢いで大空と大地が震え、山も川も揺れ動く。そうして新政府軍でいっぱいになり、もう防ぎようもなかった。

そこで逃げだして、輪王寺法親王にお目にかかろうとした。だが、親王はもう退却されていた。
後を追って三河島まで行くと追いついた。親王は僧服にわらじ履きで、お供の僧は一人だけだった。
私たちは土下座して、生死を共にさせていただきたいとお願いした。お供の僧は言った。

「親王は会津へ行こうとなさっている。お前たちはとりあえず別行動をして、後のことを考えよ」と。

その場にいた者は皆、涙を振り払って散って行った。



その後1、2年が過ぎ、国内は平定されて、罪を得た者もそれぞれ許され郷里へと帰っていった。
私もまた、危うく死にそうになりながらも、生き延びることができた。あの時の事を思い出すと、湧き上がってくる悲しみをこらえきれない。

そこで、その顛末を以上のように記録したのである。


【末尾で削除された部分】
私もまた、幸いなことに生き長らえることができ、現在に至っている。

しかし、大義のために戦って死んだあの者たちの霊が、いまでもきちんと弔われないままなのは、あまりにも悲しい。そこでこの度、私が自分の眼で見たことを思い出して記録し、それを石に刻むことで、彼らを慰霊することにした。

後の時代の人々に対して無実を晴らしておきたい、という一心からのことである。



明治7年、甲戌の年の5月、幕府の遺臣、阿部弘臧が記す。
清書は、清国の蘇州の人、費廷桂による。


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# by ichi-domi | 2017-07-03 23:43 | 追憶公演-志-『月を待つ人』 | Comments(0)
今年も始まりますよ、6月公演!!!

昨年の6月公演のスケジュール記事のアクセスがグーンと上がって1位にあがってきましたが、申し訳ありません…昨年ので…


パンフレットはまだ手に入れてませんが、パンフレット情報をいただきまして、今年は第2・3土日にやるそうです!!(*´ω`*)




H29年度第60回 静岡県中部高校演劇公演(6月公演)


【清水マリナート】
6/10(土)
 14:00~ 静岡県立三島南高等学校「校舎、ナイトクルージング」
 15:00~ 静岡県立静岡城北高等学校「また逢おうと竜馬は言った」
 16:00~ 静岡市立高等学校「贋作マクベス」

6/11(日)
 14:00~ 桐陽高等学校「真の芯は芯だが針としてしまいがちなのが真」
 15:00~ 静岡女子高等学校「出停記念日」
 16:00~ 静岡県立静岡東高等学校「むかえびと」


【静岡市民文化会館】
6/17(土)
 10:50~ 常葉学園高等学校「ミス・ダンデライオン」
 11:50~ 城南静岡高等学校「ハンバーガーショップの野望」
 14:00~ 静岡県立静岡高等学校「形のない物語」
 15:00~ 静岡英和女学院高等学校「足元のソライロ」
 16:00~ 静岡雙葉高等学校「ホット・チョコレート」
 17:00~ 静岡県立駿河総合高等学校「長靴を履いた猪とあくまでもラブストーリーは唐突に」


【島田市プラザおおるり】
6/17(土)
 14:00~ 島田樺誠高等学校「現実逃避(創作)」
 15:00~ 静岡県立焼津水産高等学校「トリコロール(虜 回転)」
 16:00~ 静岡県立藤枝北高等学校「夏芙蓉」

6/18(日)
 10:50~ 静岡県立島田高等学校「ナツヤスミ語辞典」
 11:50~ 焼津高等学校「Leaving School」
 14:00~ 静岡県立島田高等学校「真夜中の紅茶」
 15:00~ 静岡県立藤枝東高等学校「コネクティング・ストーリーⅢ ~now loading~」
 16:00~ 静岡県立清流館高等学校「宇宙の地球~僕のネバーランド~」
 17:00~ 静岡県立榛原高等学校「人狼裁判(創作)」


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# by ichi-domi | 2017-05-21 22:48 | 高校演劇 | Comments(0)

史跡巡り!Part.2

Part.1の続きです!!!

いよいよ上野公園に入りました!!
まずは入り口の方から。

慶応4年5月15日。
今で言う7月頃。梅雨の雨降る日だったそうです。
火が燃え広がらないよう、官軍は雨の日を選んだんだとか。
(上野を全面放火したのは官軍だけど)
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上野戦争の後、焼け野原となっていた山を整備し、日本で初めての公園にしたのは明治6年のこと。
オランダの医師・ボードウィンでした。

当時は焼け残った樹木を建材用に伐採する案や、不忍池を埋め立てて水田にしようとか、病院を建てようなどと検討していたそう。
しかし上野の山を緑豊かな公園として残すことを明治政府に進言したのだそう。
今これほど上野が栄えているのも、ボードウィンのおかげなのですね。

さて、話がそれましたが上野戦争に戻しましょう!


今は何もありませんが、入口の前に三枚橋という3本の橋があって、この橋を挟んで彰義隊と新政府軍は射撃戦をしたといいます。
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(東台大戦争図。当時の出来事を絵に描き起こすことが許可されていなかったので、題名は全く関係の無いものを付けていることが多い)


そして黒門があったであろう場所を通り抜け、階段を登ります。
そこは山王台と呼ばれていた、彰義隊の砲台が置かれていた場所。
今では西郷隆盛象があることで有名ですね!!
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しかし階段を登っているとお囃子の音……お神輿……?なにやら騒がしいぞ??
登ってみると、なんと西郷どんが着物を着ている…!?!?

後に調べてみたら、「西郷南洲翁銅像清洗式」という行事が行われていたようです。


人混みを避けてその後ろへ。
彰義隊のお墓は、華やかで目立つ西郷さんの立つ後ろに、ひっそりとあります。
私達が行った時には、彰義隊について書かれた石碑の周りを、子どもたちが走り回って遊んでいました。
前のブログで「例の字が読めない……」って私が騒いでいたやつです)


このお墓は、上野に放置されていた遺体を集めて火葬した場所にあります。
お墓の周りにはフェンスがしてあり、その前にお花を手向ける場所がありました。


上野戦争後、彰義隊の扱いは旧幕府軍の中でも特に悪かったといいます。
その為生き残っていても、戦死したことにして故郷にも帰れず戸籍なしで一生を過ごしたり。
上級の人は全国指名手配されて徹底的に生死を調査されたり。
上野戦争で戦死した新撰組隊士・原田左之助も、家族に迷惑がかかるから戦死したことにしたのでは…という説があります。

彰義隊のお墓は一見とても立派で大きく見えますが、これは明治14年に、政府からやっとお許しが出て立てられたもの。
とはいえ賊軍である彰義隊の名前はかけず、「戦士之墓」となっています。

よく見ないと気づかないのですが、その大きな墓石の前に置いてある小さな墓石が、明治2年に密かに作られ地中に埋められていたもの。
そして、墓石の前に何かビニールで巻かれたものが置いてありました。

何が置いてあるんだろう…?
失礼して、双眼鏡の代わりにカメラのズームで確認した所、彰義隊一番隊旗の写真のようでした。
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ちなみに官軍の旗は『菊紋章』。
その半面、今や国旗となっている日の丸は、彰義隊や旧幕府軍の掲げる『賊軍旗』だったそう。

彰義隊の旗は現在、靖国神社に収められているそうです。
(ただ戊辰戦争で戦った旧幕府軍は祀っていないとか、お国のために戦ったことに違いはないから祀るように途中から変わっただとか…)

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そのまま進んで旧寛永寺の旧本坊表門へ。
門には皇室の菊の御紋が印されています。
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本坊には輪王寺宮法親王が居住されていました。
そのため大変壮大な建造だったそうですが、上野戦争で焼け、この表門だけが戦火から逃れたそうです。
それからは帝国博物館(東京国立博物館)の正門で使われていたそうですが、関東大震災後に今の輪王殿前に移築されたそうです。

ここにも銃痕(大きさ的に大砲?)が所々に残っています。
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関東大震災や東京大空襲でも焼けなかったのだというから、何か考え深いですね。



次に向かったのが寛永寺

当時上野の山全体が寛永寺の境内だったといいますが、今は隅の方にひっそりとあります。
旧本堂は今の国立博物館前の噴水池あたりにありましたが、上野戦争で焼失しました。
ならここにあるのは何? というと、寛永15年に建てられた川越市・喜多院の本地堂が移築され、本堂とされたものです。

門にある金色の葵の紋が、印象的でした。
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寛永寺にある「上野戦争碑記」は漢文でしたが、「彰義」と違ってはっきり字が読めました。
解読は出来ませんでしたが。

次の公演でやる「関宿藩士」の記述を発見したときの、私の興奮といったら……!
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史跡巡りは以上です!

本当は彰義隊の墓の近くには彰義隊の資料館もあって、それも見たかったのですが…。
彰義隊士・小川興郷の子孫の方が個人的に運営していたそうなので、2003年の5月に閉館となってしまったそうです…。

彰義隊はたった1日で壊滅させられた上、その後も新政府の目が厳しかったから、残っている資料てとても貴重だと思うんです。
本とかもあまりないですし。

でも個人運営というと、もう一般の人が見れない状態なんでしょうかね…残念…


次は是非、元彰義隊・関宿藩士の方が眠るお墓に挨拶に行きたいです。
(実は静岡なんですよ…!?!?)


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# by ichi-domi | 2017-05-05 22:17 | 追憶公演-志-『月を待つ人』 | Comments(0)

静岡中部の社会人演劇ユニット「一笑ドミノ」のブログ! 観る側も創る側も楽しい作品を目指しています! 派生チーム「殺陣集団 壱ノ陣」や高校演劇宣伝もします。(2011年結成)


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