上野戦争碑記

こんにちは!!! 主宰です!!!

今回の『月を待つ人』の勉強のため、前回上野公園に史跡巡りした際、寛永寺に『上野戦争碑記』というものがありまして。


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漢文で、皆でにらめっこしながら「なんて書いてあるんだろうね」なんて言ってましたら、なんと和訳してくださっているサイトを発見しました。


上野戦争碑記


そもそもこの石碑は「彰義隊」の名付け親でもある阿部弘蔵という方が記したものだそう。
実体験者が書き残した数少ない資料なんです。

彰義隊の墓も色々苦労があってやっと建てられたようですが、こちらも設置までにかなりの時間と苦労があった様子。
なんといったって、これを書いたのが明治7年かと思えば、石碑建設になんとかこぎつけられたのが
明治44年なんですよ…!?

冒頭・末尾の削除、事実関係の訂正(政府のよいように…なのかな…?)、「西軍」「敵軍」を「官軍」「官兵」に変えるなどなどかなりの校正を要されたようです。


ですがこちらのHPでは『彰義隊戦史』にもとづいて、政府の指示で削除されてしまった文面も掲載されており、かなりリアルでとても参考になりました。
あとは彰義隊が、どれだけ江戸の町民らに好かれていたかも見えるところが、他と違いよく伝わってきてよいです。
その分、辛いなぁと思うところもありますが。


さて、このHPの和訳をベースに、私なりに調べたことを若干だけ肉付けして、上野戦争碑記をご紹介します。

詳しくはMoreにて!!



【次回公演案内】

演劇ユニット一笑ドミノ 追憶公演-志-
月を待つ人

脚本:岩本憲嗣 演出:大畑智明

●日時/2017年10月8日(日)
    開演14:00~(開場は30分前より)
    (所要時間2時間を予定していますが、ずれる可能性があります)

●チケット/一般800円・学生500円・小学生以下無料(当日・前売共)
      ご予約可能です!当日精算となります。

●会場/静岡県 藤枝市民ホールおかべ(地図)

●アクセス/バス
  ・静岡駅前7番のりば 12:18発「中部国道線」→13:02着「藤枝市岡部支所前」下車徒歩約5分
  ・藤枝駅前2番のりば 12:39発「中部国道線」→13:07着「藤枝市岡部支所前」下車徒歩約5分
   ※2017年5月現在

●アクセス/車
  ・新東名「藤枝岡部IC」より約5分
  ・藤枝バイパス下り「内谷IC」より約1分、上りの場合は「広幡IC」より約3分
   ※駐車場案内は後日掲載しますが、数に限りがございます。



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【冒頭で削除された部分】

明治になって天皇の政治が復興すると、多くの制度が一新された。その仁徳は国中に行き渡り、亡くなった人々にまでその恩恵は施された。
国のために命を失い、その功績が大きくはっきりしている者には、数百年前の人であっても全て爵位を追贈し、英霊を祀った。
また以前に朝廷から罪を問われた者であっても、その過ちを認めて志を改めれば、才能に応じて登用。以後は一切昔の罪を問題にはしていない。

ところが彰義隊に従って戦争で亡くなった者たちだけは、あの時に新政府軍に抵抗したという理由で、今になっても簡単な葬儀さえ許されない。
見捨てられた魂は彷徨い、きちんと成仏できないでいる。

ああ、反逆者として扱われて、彼らが不満を持たないわけはなかろう。
彼らだって、自分たちが仕える主君に尽くしただけなのだ。それなのに、世間の人がたいてい経緯を調べもせず、結果だけを見て評価しているのは、きちんとした議論ではない。




慶応4年1月。
鳥羽伏見の戦いが起こると、前・征夷大将軍である徳川慶喜公は江戸に戻り、自らの罪を認めて上野で謹慎した。
この時、江戸城内では大騒ぎとなり、盛んに議論が交わされた。


年齢が高く経験を積んだ者たちは
「朝廷に対して罪を認めたのだから、今さら兵を出して抗戦すると罪を重ねることになる。
降伏の意を示して、天皇陛下の命令を待つ方がよい」

と言う。

しかし若い者たちは皆
「それは陛下ご自身のお気持ちから発せられている命令ではない。2~3の藩の家臣が出しているものだ。主君のために無実の罪を晴らし、お家の存続を天皇陛下に求めずにはいられようか。
もし聞き入れられなければ、命を捨てるだけのことだ」

と言う。
彼らの憤りは激しく、一言一言が、聞く者の胸を打つのだった。


私も彼らの意見に賛成し、同志諸君と四谷の円応寺に集まり計画を練った。
やがて浅草の本願寺に移り、その後上野の東叡山寛永寺に陣取って、いよいよ天皇陛下にお願いする時となった。

皆は私に隊の名を考えさせた。
私が「大義を彰(しょう)明(めい)(=明らかに)できるかどうかは、今回の行動にかかっている。『彰義隊』と名付けよう」と言うと、皆は「よし」と答えた。



この頃になるとあちこちからやって来て参加する者が日増しに多くなったので、ある日、十二の隊を組織した。

遊撃隊・歩兵隊・猶興隊・純忠隊・臥竜隊・旭隊はすべて幕府直属の侍たち。
萬字隊は関宿藩士(千葉)、神木隊は高田藩士(新潟)、松石隊は明石藩士(兵庫)、浩気隊は小浜藩士(福井)、高勝隊は高崎藩士、水心隊は結城藩士(茨城)である。
それぞれ隊長を決め、取り決めをして、寛永寺内の宿坊に分かれて立て籠った。

この時、新政府軍はすでに江戸城に入っていて、我々を解散させようと命令してきた。
使者が何度も行き来したが、結局、我々は聞き入れなかった。



前・征夷大将軍の慶喜公は水戸へと移動していった。その為、輪王寺法親王を改めて擁立して、初心を貫こうと考えた。
新政府軍は、我々の意志が固く、降伏させられないと分かると、攻撃を決定した。



その昔、寛永年間(1624~43)に徳川氏が上野に根本中堂を建て、寛永寺と名づけた。皇族の輪王寺宮が代々その住職を務めてきた。

建物には金箔や碧玉がきらめき、この上なく壮麗だった。
根本中堂の前には吉祥閣がそびえ立ち、まわりに三六の宿坊を配置したのは、比叡山に倣ったものだった。そこで『東叡山』と名づけたのである。

土地は小高くて湿気が少なく、西を見下ろせば不忍池、すぐ東南は下谷の町、西北は根岸・三河島の村々へと続いている。けれども、防御に役立つ城壁はなかった。
そこで町人たちを急いで集め、木や石を運び、垣を築いて柵を建てた。
町民たちは先を争ってやって来て、仕事をしてくれた。大砲を山王台に設置して、東南の守りとした。

山門は全部で8つあった。
南は黒門といい、広小路へ通じている。我々の隊が、歩兵隊・萬字隊を率いてここを守った。
東には新黒門・車坂門・屏風坂門・坂本門。この一帯は丘を背にして、町に面していた。
我々の隊と純忠隊・猶興隊・遊撃隊がこの守備に就いた。これらの中から別に一隊を組織して、啓運寺と養玉寺に分かれて陣取らせた。
西には穴稲荷門があり、神木隊・浩気隊が守備に当たった。
清水門と谷中門では、我々の隊と歩兵隊・臥竜隊・旭隊・松石隊が守りに就いた。

部隊の配置が決まったので、町人たちには避難を命じた。




5月15日の明け方。新政府軍が攻めて来た。

元々我が軍は3000人余りが寛永寺にいたが、攻撃が突然だったので、外にいた者たちは道を塞がれて戻って来られなかった。また、怖くなって逃げ出した者もいた。
寺に留まり応戦した者は、わずか1000人ちょっとであった。
急いで他の隊にも伝令を出し、それぞれ陣地を守った。


鹿児島藩と熊本藩の兵たちが、雄叫びを上げながら広小路を進み、まず南門(黒門)に攻めかかってきた。我が軍が銃を集中して一斉に発砲すると、新政府軍のそれを避けて退いた。

ちょうどこの時、湯島台にいた鳥取藩の兵が、湯島天神の別当・喜見院に火を放った。
そして不忍池の南岸を進み、鹿児島藩・熊本藩の兵に合流して、その勢いはだんだん強くなった。

山王台にいた我が兵は、大砲を放って、しばらくの間これを防いだ。2か所で火の手が上がり、炎と煙が空いっぱいに広がる。
竹町から進んできた津藩の兵が、山の下にあった料理屋の2階に上がり、簾の陰から狙撃してきた。
我が軍はこれに向かって発砲して、退散させた。



季節はちょうど梅雨で、泥水がふくらはぎまで浸かった。
町人たちは荷物を担いで逃げようとし、ひっくり返って動けなくなり、泣き叫びながら道のあちこちに倒れている。
けれども、我々のところに来て助太刀しようとする者も少なくはなかった。



萩藩(山口)・岡山藩・大村藩(長崎)・佐土原藩(宮崎)・津藩・名古屋藩の兵たちは、本郷から西門に向かって攻め込み、根津神社に陣取っていた我が軍を撃ち破り、そのまま三崎坂にまで突撃してきた。

ここは土地が起伏し、小道は狭くて急で、さらには水たまりができていて、足止めされて進めなくなった。
我が軍兵は高いところから撃ちまくり、逃げるのを追いかけて木立の下まで行ったところで、伏兵に遇って全滅した。



根津の南には、水戸藩・富山藩・高田藩の屋敷があり、不忍池を隔てて寛永寺と向き合っていた。
佐賀藩・岡山藩・熊本藩・佐土原藩・津藩・名古屋藩の兵たちは、そこに陣を構えて遠くから銃砲を撃ってきた。
また、一隊に舟を浮かべて池を渡らせ、穴稲荷門まで迫ってきた。我々の兵は、よく踏ん張った。

德島藩・鹿児島藩・岡山藩・新発田藩(新潟)・津藩・彦根藩の兵たちが、東門へと攻め込んで来る。我が軍は、ここが最も手薄だった。
啓運寺の兵が迎え撃って撃退して、逃げるのを御徒町まで追いかけた。新政府軍は、引き返してまた攻めてきた。
我が軍は、戦いながら退却する。養玉院の兵が出撃して援護し、挟み撃ちにした。新政府軍は敗走した。



この時、東・西・南のそれぞれの門が、すべて包囲されていた。
我が軍は奮闘して、全員が1人で100人もの敵と戦っていた。中でも激しかったのは、南門の戦いだった。夜明けから正午まで戦ったが、勝敗はまだ決まらない。

両軍の咆哮は落雷のようで倒れる者が後を絶たず、老樹の枝は大砲により砕かれその轟音で墜落した。
砲弾にあたった肉片は飛散し、幹に付いた血は滴り流れ、その光景は見るに堪えない。
天野八郎は兵を取りまとめ四斤山砲(フランス製の大砲)を発射させたが、たまたま人があり声を大きく

「今しがた会津藩士数十人が敵陣に突撃しにいった、暫く発砲を止めよ。さもなくば我が軍で相撃つ恐れがある」

と言うと山王台の兵が少し躊躇した。その隙に乗じてたちまち新政府軍が彰義隊に猛撃し、兵は驚いて動揺した。



午後2時ごろ、南門を攻撃していた津藩の兵がぐるっとまわって上野の山の下に出て、乱射しながらすぐ近くまで迫ってきた。
我が軍は、だんだんと崩れだした。

新政府軍は勝ちに乗じて、南門から入ってこようとする。
我が軍は応戦して撃退したが、鹿児島藩・佐賀藩・鳥取藩の兵が入れ替わりに進撃してきた。その攻撃はとても激しい。我が軍には死傷者が相次いだ。

天野八郎は鞍上に立ち大声で兵を叱咤し防戦を訴えるがついに諸門は敗れた。

最初に新黒門が陥落し、その他の門もその後、突破された。
こうして、新政府軍は三方向から雪崩を打って入って来て、寛永寺を占領して火を放ったのだった。



私は最初、南門の守備に就いていた。突破されると、100人の隊士たちと一緒に退却して、根本中堂の前に行き、死にものぐるいで戦った。

ちょうどその時、火が殿堂にも燃え移った。吉祥閣も黒い煙と激しい炎に包まれた。
その勢いで大空と大地が震え、山も川も揺れ動く。そうして新政府軍でいっぱいになり、もう防ぎようもなかった。

そこで逃げだして、輪王寺法親王にお目にかかろうとした。だが、親王はもう退却されていた。
後を追って三河島まで行くと追いついた。親王は僧服にわらじ履きで、お供の僧は一人だけだった。
私たちは土下座して、生死を共にさせていただきたいとお願いした。お供の僧は言った。

「親王は会津へ行こうとなさっている。お前たちはとりあえず別行動をして、後のことを考えよ」と。

その場にいた者は皆、涙を振り払って散って行った。



その後1、2年が過ぎ、国内は平定されて、罪を得た者もそれぞれ許され郷里へと帰っていった。
私もまた、危うく死にそうになりながらも、生き延びることができた。あの時の事を思い出すと、湧き上がってくる悲しみをこらえきれない。

そこで、その顛末を以上のように記録したのである。


【末尾で削除された部分】
私もまた、幸いなことに生き長らえることができ、現在に至っている。

しかし、大義のために戦って死んだあの者たちの霊が、いまでもきちんと弔われないままなのは、あまりにも悲しい。そこでこの度、私が自分の眼で見たことを思い出して記録し、それを石に刻むことで、彼らを慰霊することにした。

後の時代の人々に対して無実を晴らしておきたい、という一心からのことである。



明治7年、甲戌の年の5月、幕府の遺臣、阿部弘臧が記す。
清書は、清国の蘇州の人、費廷桂による。


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by ichi-domi | 2017-07-03 23:43 | 追憶公演-志-『月を待つ人』 | Comments(0)